折形(おりかた)の歴史

このページには、折形=「この ”くに" に伝えられてきた紙による包みの技法」の歴史について、その概略を記します(すでに当方のウェブ・サイト=<折形 無免許皆伝>(旧館)に「歴史概観」を掲げましたが、いささか冗長に過ぎたため、短くまとめました)。


まづは幾つか、折形の典型的な例をご覧ください。

(以下6点の画像は『日本の折形集』、『日本の造形 折る、包む』より:共に荒木真喜雄著、淡交社)

          布地

            帯

          扇 / 花

        屠蘇蝶(とそ飾り)

          茶道具各種

        ごま塩・きな粉など


先に「包み」と記しましたが、上に示しました通り、中身を見せているものが多くあります。

包みとは、本来、品物の運搬や保護・保管のために、その全体を覆うものと受けとめられようところですが、折形と称され伝えられてきたものは、いささか様子が異なるようです。

では、その来歴をたどってゆきましょう。


■ 平安時代:雅びな貴族の手許で

紙は5世紀頃に、また、製紙法も7世紀頃には、この “くに” に伝わってきたと言われています。

当初は流通量も限られており、僧侶の写経や貴族のまつりごとに関わる文書にのみ使われていたようですが、10世紀の末頃になると、紙はモノを包むためにも用いられるようになってきました。

貴族たちは和歌をしたためた文はもちろんのこと、盛んに香や花を包んで贈りあった様子が、さまざまな物語や日記に記されています。

『枕草子』には、餅餤(へいだん)というお餅が白い紙に包まれて贈り届けられたさまや、紫に染められた薄手の紙に楝(おうち:栴檀の古名.紫色の小さな花をつける)の花を包んだり、菖蒲の根に見立てた白い紙を手紙に結びつけた様子(五月の節供にちなむ行事のひとつ.菖蒲の根を手紙に巻き付けたとの解釈もある)などが記されています。

当時は花や枝葉など、包まれるものと同系色の紙を用いるのが習わしであったようですが、『源氏物語』には、雪に見立てた白い紙で詠歌をしたためた文を包み、紅梅の枝に結わえつけて贈った、という風雅な趣向も描かれています(左下図参照)。なお、『源氏』に先立つ物語として知られる『落窪物語(巻之三)』には、「かのむかしの古蓋の鏡の箱」を元の持ち主に返す際、「色紙一かさねに包みて、物の枝につけ」たとの記述があります(ここで「物の枝」とあるのは「何か季節にふさわしい木の枝であろう。別に風流な贈物でもないので漠然と表現したのであろう。」と、小学館・日本古典文学全集版の頭註は述べています)。一方、同書に見える法華八講の法要への捧げ物のひとつについては「中国産の薄物の朽葉色の村濃染の一襲に大層きれいで美しい緋色の糸五両ばかりずつを、(金製の)女郎花の茎に結びつけなさっている。数珠の緒にするように・・・」とあることから、『落窪物語』成立の頃合いにはまだ、紙が贈答品の包みの主役にはなり得ていなかった様子を窺い知ることもできましょう)。

室町時代に描かれた浄土寺蔵『源氏物語扇面散屏風』より、「若菜・上」の一場面(『豪華 [源氏絵] の世界 源氏物語』、学習研究社刊より)。やや見分けづらいが、紅梅の枝に、白い紙に包まれた結び文がゆわえられている。

江戸初期の伝土佐光則筆『源氏物語色紙貼付屏風』より、「初音」の一場面(『豪華 [源氏絵] の世界 源氏物語』、学習研究社刊より)。ウグイスは作り物(五葉の松枝も?)。橙色の円内には、新春の贈り物として届けられた食品。矢印で示しているのは敷紙であり、また、盛られているものが台からこぼれ落ちないようにするための役割も果たす折り紙。こうした折り紙を「甲立(こうだて.饗立(きょうだて)とも.”紙を立てる→紙立て”を語源とするのだとか)」と呼ぶようになるが、源氏物語の時代にどうであったかは不明。


十二単を引き合いに出すまでもなく、当時の貴族たちはさまざまな色の衣を重ね合わせて身につけ、その美(襲(かさね)の色目と称されています)を愉しんでいましたが、時として、その人となりや教養の如何までもが問われるほどにまで、装束の色合わせは人々の重大な関心事項であったようです。

そのような日々の暮らしの中、美しく染められた紙が手許にあれば、何か物を包もうとするとき、衣装と同様、行き届いた配慮と工夫を惜しんだハズはありますまい。

『承安五節絵』と題された絵巻に、下に掲げる絵が描かれており(承安年間は1171~1175年.ただし、ここにあるのは1830年の写本.「国会図書館デジタルコレクション」より)、伊勢貞丈の『安齋随筆』には、おそらくこの絵についての言及と思しき、次のような記述があります。


  ・五節絵

  衣冠の人、袍(ほう)を肩ぬぎ裾を左脇帯に挟み立ち舞うあたりに色々彩色したる小さき

  香包の如くなる物、多く落ち散りたる体なり。是れは、舞姫の童御覧の時、ツゲの櫛を

  色々の紙して包みたるを、舞姫が持ちて御前にさし置くを、御目に留りたる童の櫛をば

  召し留められて、其の外はそのままにて差し置きたる体なり。

  これ、紀の宗直(御厨子所の預高橋若狭守)が説なり。右の絵は平家時代の古画なり。


(『安齋随筆』自体に、絵は掲載されておりません。「衣冠の人」の姿が、この記事と絵図とでは異なっておりますので、包みの様子も貞丈が見たものとは違っている可能性を否定できません。されど、平安末期に ”おおよそこのような、香なり櫛なりの包みが存在していたであろう” ことは認められてよいと思います)。


また、時代は下りますが、『増鏡』の1288年の記事には、天皇の手紙を届けるように言いつけられた関白が、その包み方が判らないため、別の貴族に包んでもらったとの旨の記述も残っています。

わづかな例をもって総体を論ずる危険は承知の上ですけれど、「600年の歴史を持つ武家のしきたり」と言われることの多い折形ですが、このような記録を併せ見るなら、その起源はもちろんのこと、包みに関するある程度以上の約束事は貴族たちの手許で成立したと考えてよいでしょう。


■ 室町~江戸前期:剛毅な武家社会にて

やがて、社会の支配階層が公家から武家に移ります。時の流れと共に、紙の生産・流通量が増え、一方、行政運営の組織が整備されてゆくにつれ、文書による管理が求められることにもなってゆきます。このとき、必要とされるのは貴族社会で多用された美麗な色染めの薄手の紙(薄様)ではなく、相応の厚みをもつ白い用紙であったハズです。

このとき、何ものかを包む必要が生ずれば、手許の白い紙を使おう、ということになったに違いありません。

さらにまた、単に手近にあったという消極的な理由からだけではなく、白い紙で折り上げられた折形は、直線に囲まれた真っ白の造形という、きりっと引き締まった姿を示すため、武家の精神性を体現するものと受け留められたことも、その定着・発展に寄与したのでしょう。

武家社会における贈答がどのような性格のものであったか、詳述をする力量はございませんが、乱暴にまとめてしまうなら、「<ご恩と奉公>と言われるような支配従属関係、身分秩序が重んじられる社会における儀礼的な贈答」ということができるでしょう。

贈られる品が、その時、その場に相応しいものであるばかりでなく、その体裁(形式)、手順が、様式(慣例)に従ったものであることも、大切な要件であったと思われます。

”お上” への貢ぎ物、これをどのように仕立てるか。

ここで手本となったのは、神仏への供物の姿だったのではないでしょうか。お上への献上品を調えるに際し、目に馴染んできた御供えの仕立てが参照されるのは不自然なことではなかったでしょう。


食糧であれ布帛であれ、お供えは多くの場合、白木の台、素焼きの “かわらけ” など、塗装や装飾を施さない器具に載せられています(より古い時代にあっては、常緑の広葉樹の葉に載せられたり、木の枝や竹に刺したり挟んだりして供えられていたものと想像されます。緑は、“いのち” そのものであり、新鮮であることの証でもあったでしょう)。そしてこのとき、供物はほとんどいつも、何ものにも覆い隠されることなく、その場に据え置かれているハズです。

白いもの、素のものは、純粋であること、清らかであることの象徴と認められているためです。白は光の色であり、汚れや穢れを許容しない色であるからです。

光のもと、直にさらされているのは、神仏がお供え物を賞翫し、すぐに召して/召し上がっていただくことができるように、との配慮からでありましょう。


古来、この “くに” の先人たちは、水稲耕作によっていのちをつないできました。

地域、時代による違いはあれど、押し並べて見るなら、清らかな水が、豊かな緑が、常に身近に存在してきたと言うことができましょう。

そうした背景に支えられてのことか、この “くに” の人々は、昔からたいへんに潔癖であったようです。ケガレを避けることに細心の注意を払ってきました。伝染される(うつされる)ことはもちろんのこと、自らのケガレが決して他に及ばぬように心を砕いてきました。

「結界」という言葉があります。神聖なる時空と俗なる時空を隔て、また、身にケガレを帯びているかもしれない自己と、ケガレを及ぼしてはならない尊い存在としての他人とを懸隔する、仮想の境界線のことです(しめ縄や、座敷で挨拶を交わすときに用いる扇子などを思い起こしてください)。

このように捉えるなら、中身の見える、すなわち、完全に保護されていない “包み” である折形のありようは、保護・保存を主目的とするのではなく、結界を仕切り、自らのケガレを移さぬための道具であると、ごく自然に諒解し得るものとなりましょう。このときさらに、「幸は天から降り注ぐもの」との見方が根底で作用するのかもしれません。折形の多くは、ケガレを避ける “上からの覆い” ではなく、“敷紙が発展したもの” と見ることもできそうです。

萩原秀三郎著『山と森の神』、東京美術刊より。しめ縄を張り巡らせた塚に幣が立てられているが、原初にあっては、おそらく布帛の類を木の枝(あるいは竹)に挟んでいたのであろう。「タテは立テで、目立つようにはっきり示す意。マツリは、物を供える意」(『岩波 古語辞典』、<奉り>の項より)。

同じく、萩原秀三郎著『山と森の神』、東京美術刊より。やや見にくいが、山の神へのお供えとして、譲り葉にご飯を盛っているところであろうと思う。

「率川(いさかわ)神社・折敷に収められた神饌」(岩井宏美・日和祐樹著『神饌』、同朋社刊より)

「石上神宮・摂社献供の神饌一式」(岩井宏美・日和祐樹著『神饌』、同朋社刊より)


下掲の絵図は、武家における進物の調えようを描いた資料からの抜粋です。今日、進物には不可欠とされている熨斗(のし)が、”食品” としての扱いであるためでしょうか、包みを施されずに据えられています(当時、香辛料などを除く食品が包まれることは、ほとんどなかったようです)。また、手綱、扇、弓懸(ゆがけ.弓を引く時に使う手袋)においては、包まれている絵図と包まれていない絵図があるなど、武家社会においても、進物のすべてが、いつの時にあっても、折形に包まれていた訳ではない様子が覗えます。

 『広蓋積物之次第 (1687年)』より「熨斗多数」

   1730年の奥付を持つ巻物より「スルメ」

     『広蓋積物之次第』より「常帯」

   『広蓋積物之次第』より「小袖・太刀組時」

    『広蓋積物之次第』より「弓弦包」

    『広蓋積物之次第』より「金襴緞子」

     1730年の巻物より「手綱」

     『広蓋積物之次第』より「手綱」

    『積物之図』(年代不明)より「扇」

  『万積方之図 』(1714年)より「扇子」

   1730年の巻物より「指掛(ゆがけ)」

 『広蓋積物之次第』より「韘(ゆがけ)多数之時」


■ 江戸後期:賑やかな町人たちの中へ

町人たちが次第に経済力をつけ世に台頭し始めた元禄の頃から、下級武士(浪人)たちが口に糊するため、「小笠原流」の看板を掲げて町人の婦女子らを対象に、折形のさまざまを直接に指南することが流行したようです。

されど小笠原流とは言いながら、口伝・秘伝とされてきた “お上” の流儀をそのままに教え伝えることは憚られたようで、少し形を変えたものに仕立てたり、武家の間ではやりとりされることのなかった品物の包を新たに作り出したりしたのでしょう(むしろ、新たに考案された面白い形に適宜な名称をあてがったという方が実情に近いかもしれません)。いつの頃にか、折形の種類は数百とも千を超えるとも言われるほどにまでふくれ上がりました。

次の写真は直接の指導がなされた教場で折られたものと推測される雛形の例ですが、制作年代が不明であるばかりか、師匠が自身の覚えのために折り溜めたものであるのか、あるいは弟子が学んだ結果をとりまとめて保存したものであるかなど、その性格を判断することも困難である場合がほとんどです。

        割り印があることで、襞の重なり具合が乱れても容易に復元できるようになっている。


また、18世紀の半ばになると “女訓書”、“往来物” などと称される実用書が多数出版されるようになり、そこには行儀作法の全般をはじめ、和歌、琴、香のたしなみなど、女性が心得ておくべきさまざまのことがらと共に、おおむね10~30種類程度の折形の図(ほとんどすべて、完成図のみ)が掲載されておりました。いくつかの例をお示しいたしましょう。

『当世民用婚礼仕様罌粟(けし)袋』(1750年:24種の折形図)

  『女今川』(1794/1844年:32種)

  『婦人日用玉の結び』(1799年:89種.

この頃の女訓書としては、例外的に多数の折形図を載せている)

   『女諸礼綾錦』(1841年:28種)


さて、先に、折形の種類が数百にも及ぶとの旨を記しました。こうした、本来のあるべき姿を見失ってしまったかのような状況に憂いを覚えたのが伊勢貞丈です。彼は、伝承されてきた “正当な折形” のみを武家の故実として、確かな記録として遺すべく1764年に『包結記(包結図説)』を著しました。展開図や手順をも掲載する、包み方・紐の結び方に関する最初の包括的な解説書として、まさに古典中の古典として広く知られている書物です。ただし、伊勢家に伝わる “正当な折形” に限ったものとは言え、掲載されているのは16種に過ぎません(ひとつの折形に対して複数の品目を挙げるものがあり、記されている品目の総数は40余に及びます)。


■ 明治以降:華やかな女学生の掌(たなごころ)の上で

明治に入り近代国家としての教育制度が整備されると、折形は家政の一環として起居進退の躾や裁縫などと共に、主として女学校などで教えられるようになりました。そうした場での教科書、もしくは参考書として用いられたであろうもののいくつかをお示しいたします。

               1900年に出版された『女子教科 包結之栞』。

          全108種の折形が、実用に耐え得る精度の展開図を伴って紹介されている。

       『婦人宝典』(1904年/1908年訂正再版)、33種の折形を掲載。

                   『小笠原流包結のしるべ』(1931年)。

    74種の折形について、展開図に加え、折り方の手順や使用法など、丁寧な解説が付されている。


折形についての詳細は、「折形教室 <無免許皆伝>」の旧館をご覧ください。

ここでは、折形についての歴史をより詳しく述べているほか、上掲『小笠原流包結のしるべ』に基づく型紙をはじめ、多種類のごま塩包みの型紙などもお手許にダウン・ロードできるようにいたしております(「折形百景」の該当ページから)。

また、YouTube にても「折形の折り方」(次頁参照)、水引による「あわじ結びの結び方」「蝶結びの結び方」、また、拙いながら、英語による折形の概説『小笠原流諸式折紙標本』の複製などをご覧いただくことができます。