折形をめぐる、武家に関わる資料から(2018.02.06記)

<1>『幕府年中行事』(国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288368) より

跋文によると、これは文政の頃、江戸将軍の家士であった井関某の描いた画を、幕末から明治時代にかけて活躍した狩野派の日本画家、狩野友信(1843~1912年)が明治31年に模写したものとのこと。


* 04コマ:「謡初(うたいぞめ)」

詞書には

「謡初と申は足利家よりこのかたの佳例にやあらむ。・・・

観世をはじめ三座のものに御服一かさねを被けらる(かづけらる)。やがて是を着て三人打ちつれ弓矢の立合を舞ふ。果てぬれば御所御肩衣をとらせ給ふ。・・・

入御の後、・・・着座の人々各むらがり出てことぶきを述べて罷でぬ(まかでぬ)。君と臣との和合せる昇平の世のすがたを見るに堪たり。」とある。

足利以来の、君臣睦まじき泰平の世を寿ぐ(ことほぐ)嘉儀と絶賛を惜しまぬが、一方にはこのような記事も。

『古事類苑・楽舞部十三・能楽・二』、「謡初」の項より、『当時珍説要秘録・三』(1833年、馬場文耕の書という)からの引用。

「三日、夜に入御謡初有之、・・・所謂諸侯より、今晩暮時前より、御盃台とて、檜細工の台の物、献上の事なり、家々に依て毎度同じ様成模様なり、或は鶴亀の細工、松竹の模様、・・・

将軍家大広間へ出御有之、御盃事初まる折から、此盃台を一々に披露有之・・・

其時観世太夫一人罷出て、平伏して四海波の小謡諷(うたう)なり、是恒例の御規式なり、畢て将軍家被為召候所の御肩布をとらせ給ひ、観世太夫へ下し給ふ、同有合ふ国主城主の諸侯より、布衣以上以下旗本の面々までも、不残肩布を取て観世太夫に給はるなり、此事御規式なり、

  翌日観世太夫方へ御徒目付罷越、白銀拾枚にて公方様御肩布を請戻し来る事、

  是に准じて皆諸侯より思ひ思ひ使者を以、目録にて肩衣を取戻す事、

  観世太夫是毎年の徳分と成し事なり」


褒美に与えた着物を、翌日には現銀・手形(目録)にて買い戻す・・・、何とも世知辛いハナシである。

著者は江戸中期の講釈師。幕府に批判的な姿勢をとがめられ、打ち首に処せられたとか。

居並ぶ者が手にしているのが、州浜台、島台などとも称される盃台(中央右寄りの、大きく描かれている飾りものが何であるのか判然としないが・・・、夫婦岩?)。

「盃台」と書かれてはいるが、一般には「酒肴を盛る台」と説明されているものと思う。されど、『徳川礼典録・上』、「天保五年・正月三日」の状(原書房、1982年の復刻版、32頁)に「・・・、御加有而(て)御盃台に載之、紀伊殿頂戴、御肴被遣之、加有而盃を持、御次間え被退時、老中取之、御盃台に載之、御酌え渡之・・・、御加有而其御盃、御銚子に載之」とあるほか、別稿で紹介した『旧儀式装飾十六式図譜』:<饗応席飾>には、向かって右の台に酒肴、左の台に盃が載せられたさまも描かれている。

「加え」が、容器である提子を指すのか、盃に酒を注ぐ行為を示すのか、(当方には)読み取りづらいところもあるが、島台に盃を載せていたことはどうやら明らかなようである(なお、近年、ぎょーかいではこの形状の台を<雲台(雲形台)>と称することが多い。海上はるか隔つところなる神仙住まわる理想郷・蓬莱山を象った州浜形の台を天上にまつり上げてしまった。なるほど、猫脚・花脚などとも呼ばれる、雲形定規のごとき独特の曲線をもつ(この絵では直線に描かれているように見受けられる)形状の脚を " 雲脚 " と言うこともあったようではあるが、如何に評してよいものやら、コトバが見つからない。ウルサいことを言い立てるつもりはないのだが(雲脚台→雲形台→雲台、と弁護することは辛うじて可能であろう)、万事、浮遊を良しとする時世にあれど、揺らいではならぬ由来を持つ事物もあろうことと思う)。


馬場氏の言うが如く、” ことほぎの島台の飾り ” が「毎年、おんなじもんらしい」とすればチト哀しいような気もするが、「恒例の儀式」なんぞというのは皆、そんなものなのだろう。


* 12コマ:「寺社の参賀」

詞書には

「・・・白木書院にして増上寺大僧正をはじめ独礼の寺院山王の宮司など出てことぶきを述ぶ。後、大広間より渡御ありて諸国の寺社山伏等の拝賀をうけらる。」

と、単独で将軍に謁見できた者と、さにあらざる者とが区分されていたことが記されている(聞くところによると、下輩のものどもは将軍様の姿を拝むことすら叶わなかったとか・・・)。

この絵では、

「一束一本」(杉原紙に扇を添える)、

「二束三巻」(杉原紙に金襴などの反物を添える)など、

武家における慣習的な贈答の姿をみることができる(これらの上に立てられている飾りものの詳細は不明。梅の作り枝か)。

文字の記録を確認するなら、『古事類苑・歳時部十・年始祝二』<寺社参賀>の項などを参照。ほんの一例を挙げるなら、『柳営秘鑑』(幕府の儀式や法規・職制などをまとめた書、1743年)には

「享保年中行事之略 正月六日寺社御礼

・・・{三束二巻}増上寺大僧正、右出座御奏者番披露之、於御下段年頭之御礼申上、

直に御右之方着座、進物は御下段より二畳目に置之、{進物番役之}」

といった記述がある。

また、この絵には、畳敷の間に多数並べ置かれている木箱と思しき物の他、行列の先頭には、木箱の上に熨斗の包みらしきものを載せた献上品も描かれている。

これらの正体も不詳ながら、『甲子夜話』には「総礼の者は{各献上もの有り、扇箱等を自ら持出るとぞ}」、『柳営年中行事』には「御太刀銀馬代杉原金襴」、「御太刀銀馬代御薫物壱箱」といった記述も見られる(いづれも『古事類苑・歳時部十・年始祝二』による)。


* 20コマ:「八朔参賀」

詞書には

「八朔(8月1日)参賀は・・・此の日、太刀折紙を献すこと元日に同じ。今日は官位にかかはらず、禄三千石以上のともがら皆たてまつれり。」とある。

禿頭の二人は、悪名高き茶坊主か? 殿中の作法に不慣れな田舎侍にイジワルを働くこともあったとか。

これまた伝え聞くところによると、太刀は木製の飾り物であったらしい。また目録には「馬代 白銀〇枚」等と記され、銀貨などが添えられていたハズだが、ここに描かれた献上台の上には見当たらない。詳細に通じていないが、奏者番などの受付窓口にてすでに納付済みなのであろう。


* 22コマ:「御内書(ごないしょ)」

詞書には

「御内書は、端午・重陽・歳暮に万石以上の大名より両御所へ時服を奉れば、その後、御書を下され、西の御所のはかの殿の宿老の奉書なり。これを世に三季の献上と言ふ。・・・」とある。

(「両御所」、「西の御所」とあるが、判ったようなことを書き散らしておりながら、実のところ歴史に疎い当方にはよく判らない。先の「寺社の参賀」に「白木書院」の語が見られるので本丸と西の丸御殿のことなのかもしれぬと思いつつ・・・。)

「御内書」とは、将軍から直々に下される文書で、当初はさまざまな内容のものの総称として用いられていたが、やがて、ここに記されている「三季の献上」に対する礼状を主として指す語となったようだ。

お姿の拝謁すら容易なことでなかった時代にあっては、将軍様からの直々の礼状は、受け取った大名の権威を高めるのに有益だったのだろう。


以上、折形とは直接に関わるものではない場面をも採り上げ、長々と記してきたのは、これまでにも幾箇所かにおいて記してきた「600年以上に及ぶ武家のしきたり・礼法」なる<折形の枕詞>に対する私の違和感をより明確に示すことができようかと思ったためである。

(今日、多くの人々がこうした表現を以て何を思い描いておられるのか、私の知るところではない。されど、もしそれが、どこか美化された、あるいは ” 美化され過ぎた ” 「武士道」なる語と結び付いているのなら、そこには僅かなからざる間隙があるのではなかろうかと思う。

武家。語弊のあらむことを恐れずに言うなら、それは取りも直さず殺人集団にほかならず、武家社会とは、まさに軍事政権以外の何ものでもあるまい。そのことを忘れて、” 武家 ” なるものを何かしら称美の対象とすることに、私は大いなる抵抗を覚える。)


無論、一人の絵師による図版をもってなにがしかを語り得るものではあるまいが、私にとって、「武家のしきたり・礼法」なる語が喚起する風景は、ここまで見てきた絵図のもたらす印象と重なるところが多い。

折形のさまざまは、容易に百を越える姿をもつ。直線のみで構成された白い紙による毅然とした折形の姿は、確かに武家一般の好むところではあったに相違なかろう。しかし、これらを生み出すには、心の趣くままの手遊び(てすさび)が必要であったハズだ。そんな自由な精神を育む土壌がここにあり得ただろうか。

折形には、我が身のケガレを伝染す(うつす)まいとする心の働きがあったハズだ。

一方には、戦乱に明け暮れ、下克上をこそ身上としていた室町・戦国の時代、もう一方には、天下泰平なれど、身分・階級に縛られていたであろう徳川の時代。一口に武家社会と言えども、勃興期と成熟期とではその性格に著しい差異も認められよう。

されど、確かに共通するのは彼らが常に武器を携え、御恩と奉公との貸借対照表を、日々更新していたであろうこと。そんなところに、贈り物を届ける相手に寄せる、真の意味での ” 敬意 ” を見て取ることができようか。

では翻って、貴族社会の贈答に打算や下心はなかったのか、と問われればたちまち答えに窮せざるを得ない。常に、文人相集い和気藹々と、といった楽園風景であったハズはなかろう。風通しも悪く多量の湿気を含んだ、天皇を頂点にいただく、それなりにやはり、身分・階級を重んじた社会。阿諛追従、権謀術数・・・。

それでもなお、貴族の手許で産み落とされた折形の果樹の育成に果たした武家の働きは限定的なものにとどまったのであり(長らくの低成長・停滞期?)、熱心に畠を耕し、肥やしを与えたのは(確かに武家支配の時代ではあったものの)町人たちの目であり手であったと言うことはできるのではないかと、一連の絵図を眺めつつ改めて感じた次第である。

無論、長い時間の中、なにがしかの進展も見られたに相違あるまい。

しかし(と続けてよいかどうか、定かでないが)、そこに働いた力は、主として奥向きのご婦人方のもたらしたものであり、(単純なるがゆえに判り易い二項対立的なものの見方にはくれぐれも注意せねばならぬが、)武家の、どちらかと言えば男性原理によって押し出された積極の発露ではなく、女性原理の支配する、観念として思い描かれようところの貴族的時空に吸引されて形をなしたものと見てよいのではなかろうか。先に「限定的」と記したのは、この意である。

元禄期に書かれた『女重宝記』などをひもとけば、やまとことば(御所ことば)の一覧が載せられており、必見の書として『古今集』をはじめとする和歌集、『伊勢物語』、『源氏物語』などが挙げられている。また、香道についても一通りの記載がある。

折形も、こうしたことどもの一要素として位置付けられてきたのであり、そうした観点から見ても、「武家の」、「600年の」と硬い枕を振り回すよりは、こころ平らかに「いづれの御時にか、をりかたあまたさぶらひ給ひけるなかに、いと " やることなき者(ⓒ当方の同居人)"  立ちあらはれ、すぐれて " ややこしうてかなんわぁ " 」(『源氏も逃れたり』)なんぞと、もうチトぼぉーっとゆるーにのたまわっておる方がはるかに実相に近いのではなかろうか。


さよう、「見たいものだけを見ただけ」で、「言いたいことだけを申し連ねただけ」に過ぎないのだろうけれど、集団行動、行列、秩序を苦手とする当方にとって、これら一連の絵図は見るだにおぞましい景色であったによって、ハイ、もうこの辺にしときます。


<2>『日本教会史・上』(ジョアン・ロドリーゲス、岩波書店:455~456頁)より


一方、もしかすると私の仮説の反証となり得るかもしれぬ次の様な記述もある。

秀吉や家康とも接したイエズス会の通事(通訳)による1600年代初頭の記録。

「・・・進物を贈る方法とうわべの飾りを甚だ重視して、そのことにいろいろな敬意の表わし方があるが、その方法は主として三つのものから成っている。

進物を包んで贈る飾りと、進物をのせて差し出す台または縁高盆と、最後に進物を座敷の中に置く場所とがそれである。

・・・彼らはこのすべてのことに大いに丹誠をこめ、虚飾を重んじる。この装飾をしないで贈ることは、通常決して見られないことである。

第一の事については、贈る物が、金、銀、沈香、伽羅木、各種の香料、絹の反物、扇、帯、その他種々多数の物のように貴重な品であれば、それらを一定の流儀によりきれいに畳んだ一定の種類の紙に包むのが一般の習慣である。この事はきわめて必要で欠くことのできないことであるために、日本の正しい習慣によれば、上述の品物を贈るのに、適当な紙に包んで整っていないと、非礼とされ、その値打ちを下げるものと思われる。

この紙の畳み方にはさまざまの作法と、きわめて優美な形式が用いられる。・・・

食べ物はこのような紙では包まないで・・・」。


「うわべの飾りを甚だ重視」、「大いに丹誠をこめ、虚飾を重んじる」などと言われると、「・・・ (-_-) ・・・」であるが、ここでは「その他種々多数の物のように貴重な品であれば」との文言も付せられつつ、「贈る物が、金、銀、沈香、伽羅木、各種の香料、絹の反物、扇、帯」と、具体的に列挙されている品目に目を留めておこう。

その上で、かの『包結記』に挙げられている品目を眺むれば次の如し。

    巻物(金襴・緞子・繻子・紗綾・縮緬)

    板の物(平らな板状の芯に巻き付けた反物の類)

    しりがい・手綱

    真羽・鷹の羽

    丈短き物(何であっても)

    ゆがけ(弓懸、?)

    矢

    弓

    帯

    渡し金

    のしあわび(包丁家・大草流のもの)

    木の花

    草花

    扇

    瓶子の口

    蝶花

    銚子の口(すべて飲食に関連する飾り物・折形・包み方などは、庖丁人の流儀に任せるべし)

    玄猪餅

    万用(短冊・墨筆・冊子錐・鉄漿付筆・帽子・香箸・茶杓・茶筅・目貫・笄 鋏・毛抜 黄金・矢の根)


なお、この書については、茶道の歴史などについて書かれた文献でしばしば言及されているのを目にしてきたが、折形にかかわるこのような重要な記述があることは長らく知らずにいた。それを知ることとなったのは齋藤和胡著『なぜ日本人は「のし袋」を使うのか?』(淡交社:2016年)。感謝を申し上げる次第である。

なお、氏は小笠原流礼法師範でいらっしゃるとのことだが、珍しいことに(?)

「これは上部を天とみなし、下部を地とみなして『天が地を覆う』という捉え方の方がもっとも自然だとする考えからです。こちらの方が理にかなっているのではないかと思えますが、いかがでしょうか。」

と記しておられることをも併せてご紹介しておこう。

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