折形をめぐる、公家に関わる資料から(2018.02.06追記)

<1>『五節渕酔之屏風絵(ごせちえんずいのびょうぶえ)』

先日、ネットを眺めていたところ、京都大学附属図書館が提供する「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」にて、「五節の舞の櫛包」を描いた表記の資料に巡り会った。

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013536#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-1998%2C-115%2C7067%2C2275、21コマより、一部を引用。

奥書に

「右 屏風取分也 他見無用

 禁裏御道具 五節渕酔之御屏風

 右京太夫信実朝臣筆 右絵本者如慶法眼写也 住吉内記」とある。

原画は歌人としても知られた鎌倉時代の絵師、藤原信実 (1176年~1265年?)の手になる屏風のようだ。

模写を行った住吉如慶(1599年~1670年)は江戸前期の絵師。土佐光吉、光則の門弟で、住吉派の祖(江戸から京都に移り、住吉内記を名乗ったとのこと)。

1600年代に、おそらく屏風(原画)を直接に見ながら写し取ったたものと見てよいのだろう(他の絵の模写についての記述ではあるが、如慶については『絵巻の歴史』(武者小路穣著、吉川弘文館:102頁)に「住吉具慶・如慶が模写したものだけに、大和絵の伝統をふまえた忠実な写本といえる」との評がある)。


比較のため、別稿にて紹介済みではあるが、

「国会図書館デジタルコレクション」から『承安五節繪』の同じ箇所(こちらは1830年の写本)。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542679、48コマの一部分。

別稿にも引用したが、伊勢貞丈の『安齋随筆』、「五節絵」の項には次の通り記されている。

「衣冠の人、袍(ほう)を肩ぬぎ裾を左脇帯に挟み立ち舞うあたりに色々彩色したる小さき香包の如くなる物、多く落ち散りたる体なり。是れは、舞姫の童御覧の時、ツゲの櫛を色々の紙して包みたるを、舞姫が持ちて御前にさし置くを、御目に留りたる童の櫛をば召し留められて、其の外はそのままにて差し置きたる体なり。これ、紀の宗直(御厨子所の預高橋若狭守)が説なり。右の絵は平家時代の古画なり。」

京大版にても「衣冠の人」は「袍(ほう)を肩ぬぎ」せず、「裾を左脇帯に挟み立ち舞」っている事情に変わりはなく、貞丈が目にした絵がどのようなものであったのかは判らぬが、原画に描かれていた<櫛の包み>が、それなり、<折形>と称してよい姿のものであったことは、ほぼ確かなものと認めることが許されるであろうと思う(ただし、引用部分に先立つ箇所の詞書きに「承安元年(1171年)の事なり」と記されており、絵師・信実本人が直接に目にした光景を書き留めたものではないことは申し添えておかねばなるまい)。

両者を(大雑把に)見比べると、詞書きにおいて変体仮名の文字のそこかしこに異同が見られるほか、京大版には一部、国会図書館版にない文章が記されてもいるようだ(元は屏風ということだが、そこに詞書きがあったか否か、美術史に通じていないので私には判らない)。

絵図の構成はほぼ一致するが、彩色の有り様はかなりに異なっている。衣装の文様も、京大版の方が細かいところもあれば、その反対に国会図書館版の方が細かいところも見受けられる。


なお、「袍(ほう)を肩ぬぎ」した「衣冠の人」は、この場面の直前に描かれており、そこに記された詞書きには

「かたぬきはてぬれは御前乃す像見なり

 ところところの淵酔推参なとに万いりて

 束帯にてかへり満いりて舞ひめわらハ

 なと乃本世つれハ御前乃御装束な越し

 て殿上人越清涼殿乃御前耳め須又

 さまさま舞の(続く1~2文字解読不可)類な里」とある。


現代語訳(衒大誤訳?)を試みれば、

「すっかりくつろいで袍を肩脱ぎにしていたが、御前の姿見(国会版では「古ゝ路ミ:試み」)が行われる頃となった。あちこちで酔っ払っていた人も束帯を直し、舞姫・童女たちも(清涼殿に)上らせたので、御前の(御前に相応しい)装束を整え(?)、殿上人を清涼殿の御前に召した。(ここでも改めて)さまざまな舞が披露された。」となろうか。


私がこの絵に拘泥するのは、折形の様式化(?)が少なくともある程度以上にまで、貴族の手許でなされていたであろうことを確認したいがためである。

これは己自身がもっとも戒めているつもりの ” 通念 ”、しかもかなり旧い時代の歴史観に基づく印象であるに過ぎぬが、生首と引き換えに恩賞を求める、言い方を換えると、ケガレのまっただ中に身を置いていたであろう武士の暮らしぶりよりは、脚気に悩み物の怪におびえつつ、歌に、また香に親しみ、十二単の襲色目で感性を磨いていたであろう貴族の精神の傾きにこそ、折形のもたらす景色は似つかわしいものと感ずるためである。

されど(文書記録であれば「薄様/檀紙で包む(裹、嚢などの文字による例が主)」とする記述はかなりの程度に存在する一方)、これまでのところ、その事情を証する絵図に巡り会うことは、この例を除いてはほとんど無きままである。失われてしまったのか、あるいは、日々当たり前になしてきたことであるので、あえて絵図に記し置くまでもなく伝承され得るものと見なされていたためであろうか。あるいはまた、様式化= ” 私的営みであったものが公的性格を帯びてゆく過程 " にあって、未だ記録に固定するには及ばぬ程度に自由な扱いが許容されていたのであろうか・・・。

もっとも文書記録に限って見るなら、武家の手によるものにおいても、多くの伝書では「紙/杉原にて是を包む」と記されるだけであったり、そこに続けて「口伝あり」と添えられていたり、という程度である。然らば、より以前の公家の文書記録にて、単に「紙に包む」と書かれているからといって、それが折形と称するには及ばない、上下左右を折り畳んだだけの簡便な仕立てであったに相違ないと切り捨てるのは、いささか乱暴な仕儀ともなろう。

この件に関して付け加えるなら、例えば宮中にても行われていたであろう玄猪餅(亥子餅)の行事について、貴族の日記である『御堂関白記』、『権記』、『玉葉』、『玉蘂(ぎょくずい:玉葱に非ず)』などを眺めてみれど、言及されている様子はない(見落としている可能性を否定するものではない)。『玉葉』、『玉蘂』には、任官に関わる除目の次第などについて「ここで笏を取り、右手で蓋を開けて文書を開き、包み直して箱に収め、膝行する。このとき、左、右、左と足を進めるのである」云々と(これは正確な内容ではない)、微に入り細を穿つがごとく事細かに、飽くことなく繰り返し記されているにも関わらず、である。

関心の在り処、比重の違いに依るのだろうけれど、資料を扱うに当たっては、こうしたことどもをも勘案する必要があろう。

既に別稿に記し置いた幾つかの記述、それぞれに数十年~百年に及ぶ懸隔はあるものの『枕草子』や『増鏡』、『竹むきが記』などをも併せ見て、それらの点と点とを結ぶなら、おぼろげながらもなにがしかの幻影が浮かび上がってくるような気がする。無論、「見たいものを見たつもりになっているだけ」のことに過ぎぬのかもしれぬが・・・。


先にここまで記した後、次のような記事に出会った。『日本絵巻大成・8 年中行事絵巻』、中央公論社、1977年:小松茂美の解説より。

「ところで、いま、「承安五節絵巻」は、幾種かの模本を残している。『倭錦』によれば、「隆信五節淵酔図」の名を掲げており、その注記として、

  如慶粉本末記云承安五節巻物を屏風とす、元和六年十月吉日、

  禁中様(註:後水尾天皇)に御座候を申出写申也、住吉内記(如慶)

と掲げている。これによれば、藤原隆信と伝える「五節淵酔図」というものがあった。その住吉如慶の模本の奥書によれば、「承安五節巻物」を屏風に改装したものが、後水尾天皇の御座所にあった。如慶がそれを借り受けて模写した、というのである。

また『好古小録』によれば、

  承安五節図屏風模本 元画巻

  光長所書ノ画巻ヲ以、光信屏風一坐ニ写シテ、

  画巻ハ伝ハラズ、今ノ画巻ハ御厨子所預宗直朝臣(高橋図南<一七〇三-一七八五>)、

  屏風ノ模本ヲ以、画巻トナス者也、

とみえている。つまり、これら二つの記録によると、この「承安五節絵巻三巻」は、藤原隆信の筆と伝え、あるときはまた、光長と伝えていた。が、その原本は巻物であった。

それを後水尾天皇が屏風に仕立てて、座所近く鑑賞していた。住吉如慶は、それを借りて模本を作った。一方、土佐光信<-一四六九-一五二三->はその絵巻をもって、屏風に写した。そして、原本はいつのまにか、散逸してしまった。・・・

事実、この模本のいくつかを私も知っている。・・・が、これらは、いずれも、江戸後期のもので、その画風はなんどかの写し崩れによって、すでに、平安朝の風趣は失われてしまっている。しかしながら、建物の構図、人物の姿体などには、例の「伴大納言絵詞」や「年中行事絵巻」を彷彿させる図様がみられるのである。」

以上、参考までに。


<2>『梅津長者物語』

上掲『五節渕酔之屏風絵』の絵師・住吉如慶の子、住吉具慶も『源氏物語絵巻』や『洛中洛外図屏風』などを代表作とする優れた絵師として知られているが、その具慶の手によるものと伝えられる絵巻物に『梅津長者物語』がある。

この絵巻については、『筆の御霊・巻之七』(『故実叢書・29巻』、明治図書:205頁)に次のような評が見られる。

「其巻物の、いとしも古からぬ事は、知らるれども、多くは、古き画を、拠として画るなれば、その意もて見るべし、ただし下巻に、黄金の小判と云物を、台にのせたる画あり。それらは後の様なり、金を吹て、形を作りて、つかふ事の始は、慶長の比なり、然れば、古き物ならずと知るべし、其前は、砂金を包みて用ひたる事になん、清水寺縁起の画に、(図)、かかる状あり、其さま見知るべし、」

著者の田沼(篠原)善一は天保年間の人。故実叢書の凡例には「本書は田沼善一の著にて、古き絵巻物に拠り、古書に徴し、冠帽、装束、甲冑、輿車、調度等を解説考証したるものなり。」とある。ほとんど言及されることのない資料ではあるが、著者の目の仔細に及ぶこと、尋常ならざるものと言えよう。

また、『梅津長者物語』という絵巻自体も、歴史上の事物を検証する資料として採り上げられることはないようだが、七福神が登場する説話・昔話であるからと言って資料的価値なきものと断じてしまってよいのかどうか(史実を記録したものではない、ということで言えば、多数に及ぶ寺社縁起なども同じ事情にあろう)。

何はともあれ(?)かような一定の留保を含んだ上で、幾つか画面を切り取り、ここに掲げてみよう(なお、『筆の御霊』上掲引用部分に先立つ箇所にて「此詞書は、巻の終に、土佐住吉内記広澄筆とあり」と記されているが、国会図書館蔵書では確認できない。また、同じくネットで閲覧できる宮内庁蔵書にても確認できなかった。一見した限りにおいては、宮内庁版には欠落箇所もあるようだが、いづれにせよ、それが原本であったか否かも不明ながら、著者・田沼氏が目にした物とここに引くものとは、細部において異同のある可能性を否定し得ない)。


なお当方、基礎知識に欠くるところがあるため、登場人物の衣装や住居、道具類などのさまから、絵師が、いつの時代を仮託して描いたものであるかを正しく判ずることはできぬが、絵巻冒頭の詞書は次のように始まる。

「ゆくすへ(?)久しくさかへ、子孫はんじやうしたる中比(頃)の事にやあらむ(?)、 梅津のさとと云ところに住わひける民有。名を左近乃せう(左近の尉/丞?)とぞいいける。」(後に「日本城州(山城の国)梅津の里」とある)。

大筋は、自らも貧しい夫婦が、困窮した人に施しを与えていたところ、七福神の来訪を受けた。盗賊に襲われることもあったが、七福神の援けも得て撃退。どうやらその後、妻は国主の(?)世継ぎの乳母となり、夫も、元は「たち花の某の子孫(果て)」らしいとのことで、五位を与えられ、さらに後には、梅津の里を安堵し、民部大輔となった、というお話し・・・のようである。

かくなる内容のものと押えた上で「その意もて見る」なら、この絵巻は、下級ではあれども、貴族の階級に属する人物の像を、「古き画を、拠と」しつつ描かれたものと仮定する程度のことは許されようと思う。


* 上巻・29コマより

大黒神が打出の小槌で地面を叩いたところ、「黄金の銚子、いろいろの割り子、小物のたぐひまで、庭中に充満せり。四季折々の木の実ども、山海の珍物、さながら山の如く也」という場面(詞書は27コマ目)。

画面左下、轡(くつわ)の横に二つ、何やら折形に包まれたものがある(その傍にあるのは鏡や化粧道具であろうか)。然らばすなわち、江戸前期に活躍し、有職故実にも通じていたであろう絵師は、ここに描かれている<何がしか、折形のごとき包み>が、武家が支配するに至らぬ時代、すでに貴族の手許にて、<進物に用いる道具>として存在していたであろうことを容認していたことを示唆するものと言い得るのではなかろうか。


* 下巻・23、24コマより

妻が乳母となり、「ご一門の公卿、殿上人、諸大夫に至り、思い思いに引出物、金銀れ*ら、絹、小袖、数々のて*ほ*を御乳母に給はるままに山をなしたる」さまを描いたもの。

なお、この詞書は31コマ目に書かれているもので、この絵とは少し離れたところにあるのだが、この場面に相応しいものと思い、ここに記した(引用文中の<*>は当方、判読不能の文字。なお、原文の変体仮名を適宜に漢字表記に改めたが、誤りを含んでいる可能性を否定しない)。


この項の冒頭に引いた『御霊』の記事にて田沼が批判しているのは、ここに描かれた黄金の小判(大判?)の絵。

『御霊』にて触れられている『清水寺縁起』の「砂金包み」の図は、国立博物館の ” e国宝 ” にて目にすることができる(巻下)。口を括った巾着袋のようなものであるが、素材を見て取ることは(私には)できない。おそらく、布ではあろうけれど。


<3>その他

以下は、ついでながらの些事報告。

・旧サイト「天地の理、ふたたび」で紹介した『野宮定基日記』、<詠歌の包み>にても参照されていた『玉蘂』、嘉禎3年(1237年)3月10日条に

「(摂政の辞表を清書し、)如本写之、加裏紙一枚、其上加礼紙二枚、其上又加一枚入凾、中、此間召寄新大納言、相共裹表凾、{以紙四枚、左右各二枚縦裹之、委見次第、}以檀紙結其上、{師鎰、}裹紙上下ヲ取平ム、{非舟裹様、}」とある。

おおよそ、

「辞表の入った箱を左右二枚づつの紙で包んだ上を、檀紙で師鎰(もろかぎ:両輪/蝶結び)で結んだ。包み紙の上下は広げておいた。舟包みの形状ではない。」といった意であろうか。

「檀紙で結んだ」というあたりの事情はよく判らぬが(この時代、檀紙は今日のように襞を持つものではなかったであろう)、細い帯状に紙を裁って結束用の紐としたのか、檀紙を用いて ” こより ” を作ったのであろうか。それはさておき、「舟包」という語がいささか気に掛かるところである。


・「舟包」については、随分時代を下るが、『広橋兼胤公武御用日記』宝暦10年(1760年)3月21日条に

「入菓肴、以躑躅薄様包、船*■ [引用者補:船包以] 同紙以小捻結、中、両鎰差躑躅花楊枝一枝」との記述が見られる。

(ここで * は <果>の下に<衣>を書く文字。通例、袋の意とされる文字であるが、旧記にてはしばしば裹(つつむ)と同義で用いられている模様。また、■ の箇所は一字分の欠落。原注は<以>を充てている。)

東京大学史料編纂所の<古記録フルテキストデータベース>を利用。「『廣橋兼胤公武御用日記』は、寛延三年(一七五〇)より安永五年(一七七六)の二十七年間にわたり武家伝奏役を勤めた従一位准大臣廣橋兼胤の役務日記である。」とのこと。

引用箇所は、草子を収めた紙破子(紙製の箱?)に関わる割書であるが、

「書物と一緒に菓肴(” おつまみ ” のようなものであろうか)が躑躅(襲色目の名であろう)の薄様に包まれて入っていた。同じ紙で(箱の全体が?)舟包みにされており、小捻結(” こより " の結び?)が施されていた。中には、両鎰(両輪・蝶)結びでつつじの造花を付けた楊枝が一本添えられていた」といった内容であると、暫定的に解しておこう。

船包みなるものの実態が判らないことに変わりはないが、幼稚きわまりない妄想にお付き合いいただけるなら、いわゆる ” たとう折り ” の手順のごとく、縦長に展げた紙の中央に真っ直ぐに箱を据え、基底部の左右を折った後、上下を裏側に折り返してしまわず、『玉蘂』では基底部の幅を維持した状態で結び留め、一方の『広橋日記』では、上下をつまみ合わせて尖らせ、船底のような形にしてあったのではないかと思う(いづれにせよ、折形と呼ばねばならぬほどの仕立てではあるまい)。


・また、この<古記録フルテキストデータベース>にては、次のような記録も見つかった。

『猪熊関白記』建暦元年(1211年)1月21日条

「(和歌一首)、余於朝餉書之、紅薄様{無薄}、内藏寮献之、余書和歌也、無他御調(原注:詞か?)只歌許也、結之如常、表ニ引墨、其上ヲ以同薄様一重裹之、其躰如*薬也、同薄様一重ヲ切{天}※シテ結頸也、片鎰、」

(*は<果>の下に<衣>の文字。※は<手偏(てへん)>に<蔑>。手許の『角川 新字源』には見当たらない。<べつ>・・・分ける、離す、といった意を示すのであろうか。)

ここでもやはり、その場しのぎの解釈を試みよう。

「御所・朝餉の間にて、箔(原文<薄>は金銀などの箔の意であるハズ)のない紅色の薄様にこの和歌を書いた。内藏寮の役人がこれを(尊勝陀羅尼の供養に)献げた。私の書いた和歌であるが、その他の詞はなく、ただ歌だけを記したものである。いつものようにこれを結び、表に緘の墨を引く。その上をまた同じ紅の薄様ひとかさね(2枚)で包むのだが、その姿は薬の包みのようなものである。紅の薄様ひとかさねの上方を切り取り(?)、開口部を絞って(紐/水引で)片鎰(片輪)結びをした。」

ネット上の辞書『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』における『猪熊関白記』に関する記事には、

「鎌倉時代,関白近衛家実の日記。自筆本 23巻,古写本 16巻 (ともに陽明文庫) を合せて,建久8 (1197) ~建保5 (1217) 年の記事が伝存している。・・・内容は,年中行事,儀式に関するものが中心であるが,後鳥羽院政期における貴重な公家史料である。なお,書名の「猪隈」は家実の居住地にちなんでいる。 」とある。

これも折形と言うべきほどのものであったか否かは判らない。

されど、ことさらに「薬の包み(あるいは袋)」と記されていることを鑑みれば、ありふれた ” たとう折り ” や封筒状のものではなかった可能性を捨て去らずにおきたいと思う。


・このほか、『今鏡』には平安期の公家、源雅実(1059~1127年)について記された段に、次の様な一節がある(『新釈日本文学叢書・第8巻『今鏡』、第7:村上の源氏』より、国会図書館デジタルコレクション、digidepo_950234)。

「院に有り難き物参らせんとて、武蔵の大徳高賴が作りたる、小弓の弓柄(ゆづか)の、下一捻(ひとひねり)したるを取り出でて、漆の煌きたる差して、磨り(すり)廻して、錦の弓柄取捨てて、陸奥国紙(みちのくにがみ)して引巻きて、錦の袋にも入れず、唯だ(ただ)陸奥国紙に包みて、奉られたりければ、いと珍しき物なりと、立返り仰せられけるとぞ聞き侍りし。」

  当該箇所の頭註より:

 「院:白河天皇也。

  有り難き物:珍貴なる物の義也。

  小弓の弓柄:小弓は、遊戯に用ふる弓を云ふ、貞丈雑記に、「小弓と云ふ物は

        武器にはあらず、楊弓などの如く、戯れのもてあそび物なり、云々」

        と見えたり、弓柄は、弓の中程の、手して握るべき所を云ふ也。

  陸奥国紙 :みちのくがみ、とも云ふ、檀紙に同じ、

        古陸奥より産せしを以て、此の名ありと也。」


白河院が、何を以て「いと珍しき物なり」と評価したのか判りづらいところもあるが、弓柄に巻かれていた錦を陸奥紙に取り換え、また、通例なら錦の袋に収めるべきところを、やはり陸奥紙に包んで(当初は錦の袋に容れてあったのかもしれない)お贈りしたところ、すぐにお喜びの返事がもたらされた、という次第であろう。

「趣きある折形に包まれていたから」とまで、ここで申すつもりはない。されど、『枕草子』(角川ソフィア文庫版・第222段)には、

「きよげなる童女(わらはべ)などの、・・・白き紙に大きに包みたる物、もしは箱の蓋に草子どもなど入れて持て行くこそ、いみじう呼び寄せて見まほしけれ。

(同書・石田穣二現代語訳)こざっぱりした女の子などが、・・・白い紙に包んだ何か大きな物、あるいは、箱の蓋に本などを入れて、持って行くのは、たまらなく呼び寄せて中の物を見たいと思う。」という記述もある。

附会を承知で言うなら、(今日の感覚とは異なり)正絹の風呂敷よりも<白い、厚口の ” みちのく紙 ” >で包まれたものの方が、よほど特別な品であると見なされていたことを示しているのかもしれない。

なお、『貞丈雑記』には、小弓につき、「内裏にて小弓の勝負ありし由『古今著聞集』にあり。・・・鎌倉大官令禅門にて小弓の会ありし由『東鑑』にあり。・・・『庭訓往来』に「楊弓、雀小弓」とあり。雀小弓と云うは、生きたる雀を糸にてくくりつり置きて、小さき弓矢にて射てあてたるもの、雀をとるたわむれなり。近世迄田舎には有りしぞと。」(平凡社、東洋文庫より引用)などとも記されている。折形とは何の関係もないが・・・。


・ついでのついでながら、「折り鶴」の起源についても触れておこう。

2017年2月22日、朝日新聞夕刊の記事より(いつまで閲覧できるかは不明であるが、2018年1月20日時点ではhttps://www.asahi.com/articles/ASK295CN0K29ULOB019.html

にて公開されている。その一部を引用)。

「折り鶴はいつから存在したのか。3羽の折り鶴が描かれた武士のアクセサリーが、16世紀末~17世紀初めの作と鑑定され、これまで最古とされてきた折り鶴の図柄よりほぼ1世紀古いことが分かった。・・・日本刀のさやに差し込んだり、小刀の柄に用いたりした『小柄(こづか)』と呼ばれるアクセサリー。・・・

これまでは、1700年前後に刊行された染め物の図案帳にある折り鶴の図柄が、最も古いとされてきた。それより約1世紀古いことになる。

折り紙の歴史を研究する岡村昌夫さん(東京都国立)は・・・『折り鶴が礼法の一環として武家社会の男性の間で誕生したことを物語るもの』とみている。」


ここでコメントを寄せている岡村氏は、私が『野宮定基日記』の存在を知るきっかけとなった龍野市歴史文化資料館における展示会を主導した方で(私は会場に足を運んだワケではなく、随分後になってその際の冊子を手にしたに過ぎず、残念ながら氏と面識もない)、密かながらに大いなる敬意を払っている御仁であるため、異論を申し立てるのは甚だ畏れ多い限りではあるが、貴族の手許で産み落とされた折り鶴を目にし、その姿に惹かれた武家の一人が、小柄の意匠に採り上げたと見ることもできるのではないかと思う(無論、折り鶴のそもそもが、胡麻塩の包みなどを折っているうちに行き着いたものなのか、さしたる目的もない手慰みの中から生まれ出たものであるのか、あるいは何らかの邪気を払うための形代(かたしろ)であったのかは知る由もない)。

ちなみに、別稿にも記していたと思うが、私の知る限り、胡麻塩包みが折形と呼ぶに値する姿で描かれている最初の記録は『食物服用之巻』。原本未見ながら、『続群書類従』掲載の奥付には永正元年(1504年)の他、寛永2年(1625年)の記載がある。

ひとたび、一葉の紙から鶴の姿が立ち現れるのを目の辺りにしてしまったなら、更なる工夫を重ねようとの衝動を町人に委ね、元禄の世まで抑えておくのは難しかったのではなかろうか、などと思わぬでもない。


<4>広化3年(1846年)『先帝 崩御ニ付御香奠献上御使者勤一件』より

   「香典の包み」、ほか


記録者の白崎久太夫は、徳川家慶の時代に幕府の老中を勤めた下総古河藩の第4代藩主・土井利位(どいとしつら)に仕えた京都留守居であった模様(この身分を公家/貴族に分類してよいか否かは知らざれど、届け先が然るべきところなればと・・・)。

崩し字の一部を解読しきれていないが、香典の白銀(しろがね:銀)の包みに用いる水引を「白・濃浅黄」にすべきなのか、「銀・白」でよいのか、あちこちの様子を窺ったらしいことも記されているようだ。

先帝・仁孝天皇のご逝去にかかわる香典。いにしえの ” やんごとなき人々 ” が、弔事の包みをどのように仕立てていたか、目にしておくのも宜しいかと・・・。

もっとも、当方は弔事であるからといってこの図のごとく天を先に、地を後に折ることはせず、慶弔ともに先に下を折って底を固め、後に蓋を上から閉じているが、これは、吉凶による上下左右の反転をすべて否定するつもりではなきものの、どこで線を引き得心するかは、個々人の判断の加減による、との見方に基づく。

いささか品を欠くたとえになり恐縮ではあるが、ご遺体を俯せ(うつぶせ)にしたり、枕に足を載せたりするお方様はおられるまい。稀に、お供えの包み紙を裏表に使うとのハナシを見聞きはするが、装束を裏返しにして遺体を包むことはあるまいと思う(実情を知らず)。上は上、下は下。表は表、裏は裏。もっとも、かくなる次第はあまりにキツく締め上げてしまうと、次の瞬間に自縄自縛・自家撞着に陥ってしまうので、あらかじめ尻尾だけを固く巻きつけておくこととしよう。



なお、比較のため、” やんごとなき人々 ” の、慶事に関わる包みについてもその絵図を掲げておこう(上に同じく、白崎久太夫が関与した記録)。いづれも、折返しが重なることのない仕立である模様。


・1781年、光格天皇即位に際しての記録より(即位そのものは1780年の12月29日)

・1817年、仁孝天皇即位に際しての記録より

・1847年、孝明天皇即位に際しての記録より

なお、ここでも羞ずることなく附会の説を申すなら、これは仕立て方を異にする下掲の如き金封の折り方と相通ずるところがあるのかもしれない。

左上の箇所、慶事の包みでは左図のごとく、ここに三角形の隙間を設ける一方、弔事の場合には右図のごとく、ここを詰めて仕立てるのが通例である。由縁は判らぬが、どこか穏やかな風通しを欲する吉事と、どこまでも厳粛を求める凶事との違いかと思う。もっとも、近年は生産工程の都合からか、吉凶ともに隙間がある製品が行き交っている(古書の一つにも同様の絵図があることは、すでにどこかに示した)。

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